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​コラム・ひとりごと

​大屋好子の作品にまつわる思い出やその他あれこれ

エッシャーと私
エッシャー展のチケット

エッシャーの版画を最初に見たのは、

西武百貨店大津店6階にある西武ホールでした。
40年以上も前のことです。

エッシャーの版画の中でも、

〈正則分割〉されたものが、

特に心に残りました。

それがきっかけになって考えたのが

「チョウチョと少女」のデザインでした。

最初の「チョウチョと少女」は木版画で、

次の「うまと宝船」はプリントゴッコで

制作していました。

型紙を切り抜いて作図しましたが、

今はパソコンを使って原稿を作り、

シルクスクリーンで制作しています。

いまだに、時間の通路を遡って、

西武ホールの展示会場に

辿り着けそうな気がしていて、
エッシャーの版画を見た時の驚きと憧れは、

静かに続いています。

見え方の不思議
アセット 2.png

反復と連続性、繰り返されるものが、

いつも気になっている。

同じ形で繰り返される模様に、

何かしら、心が落ち着く。
 

「図」と「地」が反転したり、

平面がいくつかの違う形で埋め尽くされる。

埋め尽くされるので、

「埋め尽くし」と呼んでいる。
 

それぞれの形が「図」であり、

しかも「地」である時は

「背景」が失われている時だ。

 

あるいは、「地」が「背景」であり、

「図」が「背景」である時だ。

 

その時、境界線は共有されて、

領土を分かちあっている。
 

この間、飛騨市図書館で借りた、

小川洋子さんと平松洋子さんの

『洋子さんの本棚』という本の中にある、

「レースのあるところとないところには、

同等の価値がある」

という平松さんの言葉に心惹かれた。

 

レース編みは、糸で

「すき間」を編んでいるんだなと、

「図地反転模様」にも共通する

考えが伝わってくる。


 たとえば、

2つの分け合う形を見つけるとき、
「すき間」に見いだされる形が

次第に変貌していく。

 

境界線が隔てる

2つ(あるいはいくつもの)の領域。

形はいつも不安定で、

せめぎあっているのだけれど、

境界を外し削り与えることで、

新しい形が生まれることになる。
 

繰り返しの永遠性ということから考えると、

同じ模様に対する気持ちは、

子供が同じ絵本を読んでもらって

安心している感じと

よく似ていると思う。

 『見え方の不思議』展 (2016.4.15~4.26)のフライヤーから

​物干し台の日光写真
IMG_0320.jpg

物干し台のくれへぎ(*)の屋根を修理したとき、

物干し台の下から出てきたのが、

日光写真で使った赤胴鈴之助の種紙でした。

二つにちぎれて、よれよれになった種紙は、

30年も40年も

物干し台の下に眠っていたのです。

種紙を見ていると、

日光写真で兄たちと遊んだ

遠い冬の日の物干し台が目の前に現れます。

​全部、近所の駄菓子屋のおばさんからもらったものです。

​*くれへぎ:昔の屋根はトタンではなく、

木を板状にした細長い形状のものでした。

屋根に瓦のように並べていました。

当時、一部が残っていました。

​岡本太郎の
「痛ましい腕」のリボンについて

視聴覚室横にあった

高校の図書館で見た画集の中で、

記憶にしっかりと刻み込まれているのは、

岡本太郎の「痛ましい腕」である。

 記憶の中の「痛ましい腕」には、

まったくリボンにはふさわしくない、

日に焼けた力強いフォルムの腕がある。

そして、腕の先にあるしっかりと握った右手。

手首には光を放つ

金属のブレスレットがはめられている。

何かに拘束されているようでもある。

ブレスレットによって装飾される腕。

 

下を向いている顔はどんな顔か判らず、

大きな赤いリボン

(これがリボンだというような)が

画面の中央を占めて、

より〈リボン〉としての

象徴性を描き出している。

 

そのリボンと腕の対比に驚愕する。

疑問と驚きが提示され、

深く心に刻み込まれる。

 

これこそ、〈彫刻絵画〉だ!

2次元平面が心を彫刻する絵画だ。

リボンの象徴性が

腕と握りこぶしによって破壊される。

握りこぶしは、

攻撃のエネルギーを溜めている状態である。

 

そのこぶしが引かれ、

保存されたエネルギーが

別のものに代わる、

その意味では、

これからの動きを予測させる

〈動きのある絵画〉でもある。

 力強い腕を持ち、リボンで武装する女の子。

握った右手のこぶしが、

怒りの発露を探している。

その怒りが解き放たれて、

右手が宙を舞う。

なんかそんな感じがしてくる。

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